ワシリー・カンディンスキー
スタイルの変遷
カンディンスキー、といえば抽象画の元祖です。モンドリアンとカンディンスキー、この2人が最初に、絵というものは具体的な何かを描かなくてもいい、色と形だけで絵になるのだと考え、それを実践したとされています。
もちろん2人とも、最初から抽象画を描いていたわけではありません。カンディンスキーについていえば、もともとは表現主義の人で、フランツ・マルクらと「青騎士(Der Blaue Reiter)」という表現主義芸術運動のグループを結成していました。ざっくりとした筆づかいと強烈な色彩で、最初は主に風景を描いていたのですが、だんだんと具象とも抽象ともつかなくなっていき、やがて純粋な抽象画が増えていきます。
この時期の彼の抽象画は、戦後の抽象表現主義(ゴーキーとかポロックとか…)をほうふつとさせます。
その後カンディンスキーは、第一次大戦後のドイツ(ワイマール共和国)にできた新しい美術学校バウハウスで教鞭をとるようになります。
この時期の彼の作品は表現主義的な荒々しさがなくなり、幾何学図形や直線を多用して、画面上の調和を意識した描き方になっています。
しかしナチス政権の時代になり、バウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはフランスに居を移します。
そしてこの時期から、彼の絵には細胞の内部や微生物を思わせるような有機的な形態が表れるようになり、幾何学的な形態とも組み合わされつつ、非常に華やかで力強い作品が晩年に至るまで次々と制作されます。
私は子供のころにカンディンスキーを画集などで知って、最初の内は後期の有機的なフォルムがとても好きでした。
しかし不思議なことに、年を経るにつれて初期の表現主義的な作品に惹かれるようになりました。もちろん後期の作品も相変わらず好きですが。
抽象画の誕生
カンディンスキーは若いころにモネの「積藁」を観て、最初は何が描かれているのかよくわからなかったのですが、それでもその色彩の美しさに圧倒され、絵の道を志すようになったといいます。
また、ある日カンディンスキーが自分のアトリエに入ると、今までに見たこともないような美しい絵が目に飛び込んできて、何だあれは、と驚いてその絵をよく見てみると、それは描きかけの自分の絵がさかさまに置いてあっただけだった、というエピソードもあります。
これらの体験が後にカンディンスキーを抽象画へと導いたのだとよくいわれます。
そういうとらえ方は、近代美術の歴史に関する特定の解釈とリンクしているように思えます。つまり、印象派の登場によって、絵画は対象の写実よりも色や形の自律性を重んじるようになったのであり、その帰結が抽象絵画なのだ、という解釈です。
こういう近代美術のストーリーは説得力があり、かなり長い間、美術史学の世界で主流になっていました。今でも入門書などではそういう解説をしているものが多いかもしれません。
しかし最近は、抽象画の誕生にオカルティズムの影響を指摘する人が増えています。
実際、カンディンスキーもモンドリアンも「神智学」という、近代オカルティズムの源流ともいわれる思想に深い関心を抱いていたようです。確かに、カンディンスキーは著書『芸術における精神的なもの』の中で、この神智学に(ごく簡単にではありますが)触れています。
また、上記の2人とともに抽象画のパイオニアといわれる、ロシアの画家マレーヴィチも、キリスト教神秘主義に強い関心を抱いていたようです。さらに青騎士やバウハウスでカンディンスキーと行動をともにしたパウル・クレーも、神智学の流れをくむルドルフ・シュタイナーの影響を受けていたといわれています。
とはいうものの、例えばカンディンスキーの作品のここのところが、神智学の創始者であるブラヴァツキー夫人のこういう言葉と対応している、みたいなことがあるのかというと、おそらく違うと思います。
確かに通常の感覚ではとらえられない、超感覚的なものを絵画によってとらえようという考えはあったのでしょうが、それらをマンダラのようなシンボルで図解し説明するというのではなく、色や形、または絵画の形式がおのずから感覚を超えた次元を指し示す、というのが彼らの描いた抽象画のコンセプトだったのではないかと私は考えます。
芸術の力と社会
カンディンスキーは帝政時代のロシア出身ですが、ドイツで絵を学び、画家としてのキャリアをスタートさせています。
しかしロシア革命が起きると、彼はソビエト連邦となった故国に戻ります。
レーニンは革命前の亡命時代、スイスのチューリッヒでダダイストなどとも交流があって前衛芸術に理解があり、革命国家の文化政策として前衛的な若い芸術家たちを積極的に支援しました。
前衛芸術は、人々の世界に対する認識を刷新するという点で芸術の革命であり、社会の革命に寄与する、という考えがあったのだと思います。
カンディンスキーのほか、マレーヴィチやシャガールなども集まり(シャガールはマレーヴィチに嫌われて、すぐに離脱したそうですが)、政府の芸術活動に協力して、美術学校での指導などに従事していました。
ところがレーニンが亡くなりスターリンの時代になると、社会主義リアリズムという、形式的には保守的な芸術が奨励され、前衛芸術には「ブルジョア的」との烙印が押されるようになります。
マレーヴィチのようにやむなくスタイルを変えた芸術家たちもいましたが、カンディンスキーはドイツに戻ります。そして、さっきも触れたように、今度はバウハウスで芸術教育に携わりつつ、制作を続けます。
ところが今度はドイツがナチス政権になって、バウハウスが閉鎖されてしまいます。ナチスは前衛芸術を「頽廃芸術」と呼び、徹底的に弾圧します。
仕方なくカンディンスキーはドイツを離れ、今度はフランスに渡ってパリで制作を再開するのですが、10年も経たないうちにドイツがフランスに侵攻、フランスはナチスに占領されます。
周囲の人からは亡命を勧められたそうですが、カンディンスキーはフランスに留まりました。この4年後に亡くなっているので、すでに健康面で難しかったのかもしれません。
このように辿っていくと、カンディンスキーがソ連やドイツの芸術に対する干渉に振り回され、大変な苦労を強いられたのがわかります。
彼に限らず、多くの芸術家が政治のせいでひどい目にあっています。逮捕されたり、自殺に追い込まれたり、作品を焼かれたり…。カンディンスキーなどはうまくやり過ごしたほうかもしれません。
もちろん政治が芸術に口を出したり、弾圧したりするなんて許しがたいことです。
しかし考えようによっては、芸術作品が人々に与える影響力というものを、スターリンやヒトラーが認めていたのだともいえます。
スターリンについてはわかりませんが、ヒトラーがかつて画学生だったことは有名です。また、ナチスの宣伝相だったゲッペルスは、表現主義の絵画をむしろ好んでいたようなのですが、ヒトラーの方針に仕方なく従っていたともいわれています。
今の時代では、芸術が人々の意識や社会に影響を与える、なんていう考えは人気がなくなっています。特に視覚芸術は。
だから作品の形式とかコンセプトとかは見向きもされず、ただ、昭和天皇の写真を焼いているからけしからん、みたいなことになってしまいます。
こうなってしまった一つの原因として、写真以降のメディア・テクノロジーの進歩(特にテレビからインターネットに至るまで)があまりにも劇的で、前衛芸術が目指したよりもずっとずっと激しく、人々の感覚のありようから社会に至るまでを変えてしまったことが考えられます。
そうした変化に比べれば、一人ひとりの芸術家がすることなんて、確かにちゃちなものです。そんなもので世の中に影響をもたらす、社会を変えるなんて、思い上がりも甚だしい…という話になります。
それではもはや、芸術には人を動かす力なんてないのでしょうか? 芸術はとっくの昔に死んだのでしょうか? ああ、芸術は。。。
もうだいぶ話が長くなってしまいました。今回はこの辺で終わりにいたします。
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