ジャン=リュック・ゴダール
今回のデザインは「JLG追悼」。JLGとは、先日亡くなったジャン=リュック・ゴダールのことです。
ちょっと、こっ恥ずかしさがないわけではないのですが…。
ところで「ゴダール」といえば「難解」、というのがほとんど掛詞のようになっていますが、かつて淀川長治が、ゴダールの映画はよくわからないけれども、空を美しく撮っていたりして、私は案外嫌いじゃない、というようなことをどこかで書いていました。
確かにゴダールの映像は美しいです。空だけでなく、海も、緑も、街も、室内も、そして人…とりわけ女性も、ファッションも含めて。
また、これはゴダール独特のものですが、タイポグラフィ、つまり文字を使ったデザインもとても美しいです。オープニングタイトルだけでなく、映画の途中で唐突に文字だけの画面が挿入されたりもしますが、シンプルでかっこいい。
見た目だけでなく内容もシンプルな場合が多くて、"PONTI" "GODARD" "COUTARD" などと何の説明もなしに苗字だけがテンポよく表示されるのなど、オシャレだなあと思います。
また自分の作品だけでなく、ロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」の予告編をゴダールが作っていて、やはりタイポグラフィをうまく使っています。
私は以前からゴダールのタイポグラフィを何らかの形で真似してみたいなあと思っていて、今回とうとう望みを果たしわけですが…どうでしょう?
その他にも編集のテンポのよさや音楽の大胆な使い方など、理屈を持ち出す必要のない美しさやカッコよさや楽しさがゴダールの映画には溢れているように思います。
それならば、なぜ彼の作品は「難解」といわれてしまうのでしょう?
ストーリーの語り方がひねくれているからでしょうか?
確かにゴダールの映画には、観客をストーリーに引き込もうとか、ストーリーにリアリティを持たせようとかいう意思があまり感じられない、というのはあります。
しかしストーリーそのものに無関心か、というと、ちょっと違う気もします。女に振り回される男の悲哀とか、恋愛の喜びと苦さとか、テクノロジーを駆使した超管理社会の恐怖とか、売春をするに至る主婦の虚無感とか…、いろいろとひねくれた作り方をしてはいても、ストーリーがもたらすこれらの情感はちゃんと感じられるからです。
それじゃあ、アンチ商業主義だから?
確かにゴダールはそもそも左翼ですし、いわゆる「商業主義」とは正反対の人ではあったでしょう。
しかし商業主義ではなくとも、ファッションやグラフィックデザインのような商業芸術とは親和性が高いように思えます。ローリング・ストーンズやレ・リタ・ミツコのレコーディング風景を映画に取り込んだり、初期の作品では通俗的な犯罪小説を原作として用いたりしています。
簡単にいえば、ゴダールの映画はポップです。特に60年代の作品にはとてもポップだったと思います。
とはいえ、だけどやっぱりゴダールの映画は難しいんだよなあ、と言われれば、そりゃあ、そうなんだけどね、と私も答えないわけではありません。
しかしゴダール作品の難しさというのは、前衛美術の歴史に例えていうと「シュールレアリスムの難しさ」ではなく「ダダの難しさ」だと思います。
「シュールレアリスムの難しさ」というのは、作品に何か意味があるらしいのだけれどその意味が何だかわからない、ということです。それに対して「ダダの難しさ」というのは「作品の意味がわかる」ってどういうこと? と訊かれると実はうまく答えられない、そういう難しさということです。何で既製品の便器を私の作品だと言って展覧会に出しちゃいけないの? みたいなことです(そういえば、ヌーベルバーグと同時代の芸術運動であるアメリカのポップアートは、ジャスパー・ジョーンズらによるネオ・ダダの運動に続くものでした)。
別にどっちがいいとか悪いとかいうことではないのですが、後者のほうがラディカルではあります。ラディカルというのは「根本的」であり「徹底的」であるということです。
そしてゴダールは、そういう意味でまさにラディカルな映画作家だったと思います。
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