ジョルジュ・バルビエ/『ガゼット・デュ・ボン・トン』
久々の投稿です。今回のデザインは、20世紀前半のフランスの画家・イラストレーターであるジョルジュ・バルビエの作品を挿絵として使ったモード誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』の誌面が題材です。
バルビエの作品は、今までも何作かデザインに使用してきました。アール・デコ様式の画家としてエルテと並び立つ存在で、絵画・イラストだけでなく舞台やファッションの方面でもデザイナーとして活躍しました。
私は絵としてはエルテのほうが好きなのですが、バルビエの作品も美しいと思っています。エルテの作品は抽象度が高く、ときにアバンギャルドな様相を帯びることもあって、作品自体を美術館や画集などで鑑賞するのに適しているのに対し、バルビエは頽廃的な題材を扱う場合でも独特な気品があって、自室の壁にポスターとして貼ったりTシャツにしたりするのに適しているかと思います。
バルビエは本の挿絵ですばらしいものをたくさん描いていますが、主な活躍の場はファッション誌だったようです。当時はまだカラー写真が存在しない時代でしたから、最新のモードを伝える媒体としてイラストが使用されていました。
バルビエは複数のファッション誌で仕事をしていましたが、『ガゼット・デュ・ボン・トン』もそんなうちの一つでした。同誌は1912年、リュシアン・ヴォージェルによって創刊された雑誌で、鹿島茂の『バルビエ×ラブルール アール・デコ、色彩と線描のイラストレーション』という本によると、
モード誌と銘打っているが、その内容は多岐にわたり、ファッションのみならず、室内装飾や生活雑貨などを含めたモダンでおしゃれなライフスタイルを提案し、文中においても装飾や挿絵を使用することで書物としての美しさを求めた。テクストも、ヴァレリーをはじめとする一流文人たちが寄稿し、文芸や時事問題などを扱ってヴァリエーションに富んでいた。すべての点で、同時期に発行された他の雑誌と比べても、最高品質のモード誌と言えるだろう。
私はファッション誌については疎いので、「文芸や時事問題などを扱」うものが最近あるのかどうかよく存じ上げないのですが、かつては『マリ・クレール』の日本版がこういう性格をもったファッション誌としてよく知られていて、村上春樹やら吉本隆明やらの文章が掲載されていました。
『ガゼット・デュ・ボン・トン』は現在でも「20世紀最大のモード雑誌」などと呼ばれていますが、1925年に『ヴォーグ』に吸収されます。
上記の文中にヴァレリーの名前が出てきました。ヴァレリーといえば詩人としてだけでなく『テスト氏』のような小説や『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』などの評論でも知られた人物ですが、鹿島茂の前掲書には、ヴァレリーがバルビエに捧げた詩が載っています。
私の漠然とした言葉が抽象の中で神話を語るあいだバルビエはそれを一筆でとらえるイメージによる虚無の征服者よ!
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Hungry Freaksでは他にもジョルジュ・バルビエの作品を題材にしたデザインを扱っております。
ぜひぜひお立ち寄りくださいませ。
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C・H・ベネットのクリスマスカード
お久しぶりです。今回のデザインは、19世紀半ばのイギリスで活躍したイラストレーター、チャールズ・ヘンリー・ベネットがクリスマスカード用に描いたイラストが題材です。
ベネットはケイト・グリーナウェイと同時代、つまりビクトリア朝時代の絵描きですが、屈託のない画風で、コミックふうなイラストの開拓者ともいわれています。2002年まで刊行されていた有名な風刺漫画雑誌『パンチ』にも寄稿していました。
クリスマスの話題としてよくあるのが、「サンタクロースを何歳まで信じていたか」。私は小学校1年か2年のときまででした。
当時通っていた習い事で、誰かが「サンタクロースなんていない」と話しているのを小耳にはさむ形で聞いたのですが、別に驚きもなく、騙されていたと悔しがることもなく、ただ単純に「そりゃそうだ」と思ったのを覚えています。
ということで、皆様どうか楽しいクリスマスを、そしてよい新年を!
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Twitter開設記念デザイン販売中!
ブログに続いて、Twitterも開設しました!
Tシャツ販売サイト「Tシャツトリニティ」で「Hungry Freaks」というショップを数年前から出しています。このたびTwitterも開設しました! 今更ながらの初Twitterでしばらくは様子見しますが、どうかよろしく!
— Hungry Freaks (@FreaksHungry) 2022年8月14日
Twitterにはセール情報や、タイムリーな話題などについてふと思いついたこと、感じたことを書いていこうと考えています。こちらのブログはアート関係など、じっくり考えて形にしたいことを中心に書くつもりです。
よろしかったら、ぜひぜひフォローをお願いします!
今回はTwitter開設を記念して特別デザインをご用意しました。
Twitterのロゴにちなんで、ルリツグミ(英語名はblue-bird)の絵と、ムジルリツグミ(英語名はarctic blue-bird)、チャカタルリツグミ(英語名はwestern blue-bird)を含めた3種の鳥を描いたものを使用しました。
どちらも19世紀の博物学者オーデュボン(伊坂幸太郎に「オーデュボンの祈り」という作品がありますね。私は未読ですが)の『アメリカの鳥類』という本に収められています。
ムジルリツグミは、Twitterのロゴのモデルともいわれています。上の2つ目のTシャツの中で、体をのけぞらしている鳥です。
今後ともHungry Freaksをよろしくお願いいたします!
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ケイト・グリーナウェイ『マリーゴールド・ガーデン』
今回のデザインは、ケイト・グリーナウェイの詩画集『マリーゴールド・ガーデン』です。
ケイト・グリーナウェイが、19世紀後半のイギリスで活躍した画家で、詩人でもありました。
19世紀後半のイギリスといえば「ヴィクトリア朝時代」ともいわれ、イギリスの黄金時代ともいわれています。
道徳的に保守的で抑圧的でというイメージもありますが、その一方でイギリス文化の爛熟期でもありました。
ディケンズ、ターナー、ウィリアム・モリス、ブロンテ姉妹、ラファエル前派、シャーロック・ホームズ、切り裂きジャック…。
そして絵本などの児童文化にとっても黄金時代であり、その中止人物の一人ががケイト・グリーナウェイでした。
彼女の描くかわいい子供たちはとても人気を博し、その子供たちが着るかわいい服もまた実際に作られて販売されるほどのブームとなりました。
しかしかわいいといっても、どこか不安や内向性を感じさせる、はかなげな印象もあります。彼女自身も非常に内気な性格だったようです。
ケイト・グリーナウェイの作品は世界中に紹介され、大きな影響を与えました。
以前に取り上げたオーブリー・ビアズリーは、子供のころに彼女の絵をよく模写していたそうで、金持ちの友人の頼まれて描いたところ、今の日本円で50万円に相当する額をもらったそうです。
彼女の絵を見ていると、私はなぜかヘンリー・ダーガーを思い起こします。
えーっ、違うよ、と思う方もあるかもしれませんが、ヘンリー・ダーガーの純粋とも猥雑ともつかない奇妙な世界と、ケイト・グリーナウェイが描くヴィクトリア朝時代の子供たちの世界には、どうも通じ合うものがあるような気がしてなりません。
彼女の詩画集『マリーゴールド・ガーデン』は青空文庫に、大久保ゆうさんの訳によるものが掲載されています。興味がある方はご覧ください。
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Hungry Freaksでは、他にもケイト・グリーナウェイの作品を素材にしたデザインも取り揃えております。
ぜひぜひお立ち寄りくださいませ。
神坂雪佳『蝶千種』
今回のデザインは、神坂雪佳の『蝶千種』というデザイン画集(図案集)に掲載されている作品が素材です。
神坂雪佳は明治から昭和初期にかけて活躍した画家・図案家です。琳派の影響を非常に強く受け、屛風画や襖絵なども制作しています。
私は残念ながら実物を見たことはないのですが、写真で見る限りの印象では、尾形光琳の厳しさよりはむしろ俵屋宗達のおおらかさに近い、明るい画風かと思います。
特に人物や動物を描いたものはちょっとゆるくて、かわいらしいです。
『蝶千種』の「千種」というのは「たくさん」というほどの意味かと思います。全2巻で、50点の図案が収められています。蝶を大胆に抽象化したものもあれば、模様を細かく描いたものもあります。
着物や手ぬぐいなどにいかにも似合いそうですが、Tシャツや布製のバッグに使えると思い、3点を選んでみました。
ぜひ、ご覧ください。
ワシリー・カンディンスキー
スタイルの変遷
カンディンスキー、といえば抽象画の元祖です。モンドリアンとカンディンスキー、この2人が最初に、絵というものは具体的な何かを描かなくてもいい、色と形だけで絵になるのだと考え、それを実践したとされています。
もちろん2人とも、最初から抽象画を描いていたわけではありません。カンディンスキーについていえば、もともとは表現主義の人で、フランツ・マルクらと「青騎士(Der Blaue Reiter)」という表現主義芸術運動のグループを結成していました。ざっくりとした筆づかいと強烈な色彩で、最初は主に風景を描いていたのですが、だんだんと具象とも抽象ともつかなくなっていき、やがて純粋な抽象画が増えていきます。
この時期の彼の抽象画は、戦後の抽象表現主義(ゴーキーとかポロックとか…)をほうふつとさせます。
その後カンディンスキーは、第一次大戦後のドイツ(ワイマール共和国)にできた新しい美術学校バウハウスで教鞭をとるようになります。
この時期の彼の作品は表現主義的な荒々しさがなくなり、幾何学図形や直線を多用して、画面上の調和を意識した描き方になっています。
しかしナチス政権の時代になり、バウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはフランスに居を移します。
そしてこの時期から、彼の絵には細胞の内部や微生物を思わせるような有機的な形態が表れるようになり、幾何学的な形態とも組み合わされつつ、非常に華やかで力強い作品が晩年に至るまで次々と制作されます。
私は子供のころにカンディンスキーを画集などで知って、最初の内は後期の有機的なフォルムがとても好きでした。
しかし不思議なことに、年を経るにつれて初期の表現主義的な作品に惹かれるようになりました。もちろん後期の作品も相変わらず好きですが。
抽象画の誕生
カンディンスキーは若いころにモネの「積藁」を観て、最初は何が描かれているのかよくわからなかったのですが、それでもその色彩の美しさに圧倒され、絵の道を志すようになったといいます。
また、ある日カンディンスキーが自分のアトリエに入ると、今までに見たこともないような美しい絵が目に飛び込んできて、何だあれは、と驚いてその絵をよく見てみると、それは描きかけの自分の絵がさかさまに置いてあっただけだった、というエピソードもあります。
これらの体験が後にカンディンスキーを抽象画へと導いたのだとよくいわれます。
そういうとらえ方は、近代美術の歴史に関する特定の解釈とリンクしているように思えます。つまり、印象派の登場によって、絵画は対象の写実よりも色や形の自律性を重んじるようになったのであり、その帰結が抽象絵画なのだ、という解釈です。
こういう近代美術のストーリーは説得力があり、かなり長い間、美術史学の世界で主流になっていました。今でも入門書などではそういう解説をしているものが多いかもしれません。
しかし最近は、抽象画の誕生にオカルティズムの影響を指摘する人が増えています。
実際、カンディンスキーもモンドリアンも「神智学」という、近代オカルティズムの源流ともいわれる思想に深い関心を抱いていたようです。確かに、カンディンスキーは著書『芸術における精神的なもの』の中で、この神智学に(ごく簡単にではありますが)触れています。
また、上記の2人とともに抽象画のパイオニアといわれる、ロシアの画家マレーヴィチも、キリスト教神秘主義に強い関心を抱いていたようです。さらに青騎士やバウハウスでカンディンスキーと行動をともにしたパウル・クレーも、神智学の流れをくむルドルフ・シュタイナーの影響を受けていたといわれています。
とはいうものの、例えばカンディンスキーの作品のここのところが、神智学の創始者であるブラヴァツキー夫人のこういう言葉と対応している、みたいなことがあるのかというと、おそらく違うと思います。
確かに通常の感覚ではとらえられない、超感覚的なものを絵画によってとらえようという考えはあったのでしょうが、それらをマンダラのようなシンボルで図解し説明するというのではなく、色や形、または絵画の形式がおのずから感覚を超えた次元を指し示す、というのが彼らの描いた抽象画のコンセプトだったのではないかと私は考えます。
芸術の力と社会
カンディンスキーは帝政時代のロシア出身ですが、ドイツで絵を学び、画家としてのキャリアをスタートさせています。
しかしロシア革命が起きると、彼はソビエト連邦となった故国に戻ります。
レーニンは革命前の亡命時代、スイスのチューリッヒでダダイストなどとも交流があって前衛芸術に理解があり、革命国家の文化政策として前衛的な若い芸術家たちを積極的に支援しました。
前衛芸術は、人々の世界に対する認識を刷新するという点で芸術の革命であり、社会の革命に寄与する、という考えがあったのだと思います。
カンディンスキーのほか、マレーヴィチやシャガールなども集まり(シャガールはマレーヴィチに嫌われて、すぐに離脱したそうですが)、政府の芸術活動に協力して、美術学校での指導などに従事していました。
ところがレーニンが亡くなりスターリンの時代になると、社会主義リアリズムという、形式的には保守的な芸術が奨励され、前衛芸術には「ブルジョア的」との烙印が押されるようになります。
マレーヴィチのようにやむなくスタイルを変えた芸術家たちもいましたが、カンディンスキーはドイツに戻ります。そして、さっきも触れたように、今度はバウハウスで芸術教育に携わりつつ、制作を続けます。
ところが今度はドイツがナチス政権になって、バウハウスが閉鎖されてしまいます。ナチスは前衛芸術を「頽廃芸術」と呼び、徹底的に弾圧します。
仕方なくカンディンスキーはドイツを離れ、今度はフランスに渡ってパリで制作を再開するのですが、10年も経たないうちにドイツがフランスに侵攻、フランスはナチスに占領されます。
周囲の人からは亡命を勧められたそうですが、カンディンスキーはフランスに留まりました。この4年後に亡くなっているので、すでに健康面で難しかったのかもしれません。
このように辿っていくと、カンディンスキーがソ連やドイツの芸術に対する干渉に振り回され、大変な苦労を強いられたのがわかります。
彼に限らず、多くの芸術家が政治のせいでひどい目にあっています。逮捕されたり、自殺に追い込まれたり、作品を焼かれたり…。カンディンスキーなどはうまくやり過ごしたほうかもしれません。
もちろん政治が芸術に口を出したり、弾圧したりするなんて許しがたいことです。
しかし考えようによっては、芸術作品が人々に与える影響力というものを、スターリンやヒトラーが認めていたのだともいえます。
スターリンについてはわかりませんが、ヒトラーがかつて画学生だったことは有名です。また、ナチスの宣伝相だったゲッペルスは、表現主義の絵画をむしろ好んでいたようなのですが、ヒトラーの方針に仕方なく従っていたともいわれています。
今の時代では、芸術が人々の意識や社会に影響を与える、なんていう考えは人気がなくなっています。特に視覚芸術は。
だから作品の形式とかコンセプトとかは見向きもされず、ただ、昭和天皇の写真を焼いているからけしからん、みたいなことになってしまいます。
こうなってしまった一つの原因として、写真以降のメディア・テクノロジーの進歩(特にテレビからインターネットに至るまで)があまりにも劇的で、前衛芸術が目指したよりもずっとずっと激しく、人々の感覚のありようから社会に至るまでを変えてしまったことが考えられます。
そうした変化に比べれば、一人ひとりの芸術家がすることなんて、確かにちゃちなものです。そんなもので世の中に影響をもたらす、社会を変えるなんて、思い上がりも甚だしい…という話になります。
それではもはや、芸術には人を動かす力なんてないのでしょうか? 芸術はとっくの昔に死んだのでしょうか? ああ、芸術は。。。
もうだいぶ話が長くなってしまいました。今回はこの辺で終わりにいたします。
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Hungry Freaksではカンディンスキーの作品を素材にしたデザインも取り揃えております。
ぜひぜひお立ち寄りくださいませ。
ジャン・ド・ボッシュ
今回のデザインは、ベルギー出身のイラストレーターであり、小説家・詩人でもあったジャン・ド・ボッシュのイラスト2点です。
どちらも女の子を描いていますが、ちょっとあやしげですね。
ビアズリーの影響を強く受けたようですが、線はビアズリーに比べるとあまり流麗ではありません(もっとビアズリーふうな絵も描いているようですが)。
どこか昔の日本のアングラ漫画を思わせるところもあります。
英語版のウィキペディアによれば、若いころに「悪魔崇拝の罪」で告発され、ベルギーを逃げてイギリスにわたったとのことです。悪魔崇拝の罪なんてあったんですね
その後も自分のことを「サタン」と呼んだり、変な奴だったようです。
上記のように小説や詩も書いていたようですが、日本では全く翻訳されていないので、どんな作品を書いていたのか、オカルトっぽいものだったのだろうとは思いますが、詳しいことはわかりません(実は姓もボッシュと読むのがいいのか、ボッシェルと読むのがいいのか、はっきりしません)。
今回使用した絵も、彼の小説「奇妙な島々」のために描かれたイラストです。
好きなタイプの絵だなあと思う方は、TシャツトリニティのHungry Freaksをぜひ覗いてみてください。